「陶芸家としては父親が初代。何代も続いているような家ではないので、陶芸をやるつもりも継ぐ気持ちもまったくなかったですね。」
家を出たかったことと、歴史が好きだったことで京都の大学の史学科へ進み、その間 美術館や博物館によく通い、漫然と美術館や博物館の学芸員になれればと資格もとったが募集などほとんどなく、陶芸好きの教授から京都府陶工職業訓練校を勧められる。
「僕としては1年間、モラトリアムな感覚で行くのもいいかなと。それでもまだ本気で陶芸をする気はなかったですね。」
朝から晩までひたすら土練り、それをクリアすると次の段階のロクロというように、訓練校で陶芸の工程を初歩から習い、見事にはまってしまった。
「夢中になって一生懸命やっていました。自分で練った土をロクロで挽いて、削って、釉薬を掛け焼成し、初めて窯から出てきた時は雷に打たれたようなものすごい衝撃でした。あの時の感動は今でも忘れられません。DNAの覚醒というか、これはやらなければいけない
土をロクロで挽いて、削って、釉薬を掛け焼成し、初めて窯から出てきた時は雷に打たれたようなものすごい衝撃でした。あの時の感動は今でも忘れられません。DNAの覚醒というか、これはやらなければいけないのだと強く思いました。」
訓練校を卒業後 多治見に戻り、そこから15年 父親の仕事を手伝いながら技術を身につけていく。
「陶芸の道に入るからには父親と同じことはやりたくない。2世というのは1世とどれだけ違うことがやれるかが全てだと強く思いました。」
志野を追求する父親、そして先生自身が選んだのが緑釉。
緑釉を選んだのは緑の色が好きだったから。工房の周りにはさまざまな樹木や草花、苔があり、その自然が先生の表現の源泉でもある。
成形した作品の表面に、大小の粒石を混ぜたやわらかい泥を塗りつけ、指や麻布で掻き取っていく。凹凸や歪み、動きのある表面に緑釉が掛かると、流れるところ 溜まるところで濃淡が生まれる。その景色を計算して作業する。
「シンメトリーでかちっとした形に挽いたものに緑釉を掛けると堅いイメージで、やはりありきたりなんです。だから敢えて形を歪ませたり、表面に泥を塗りつけたり、大小さまざまに粉砕した素焼きを混ぜたり。加飾の感覚ですね。最近は藍緑釉や褐釉などの作品も発表していますが、緑釉のバリエーションをどう極めていくか、次に何があるのかと、日々考えています。」
父親と一緒の仕事場から、昨年2階に自身の城ともいえる工房を作り独立。
「ずっと背中合わせでやってきたので、いろいろな場面で気を遣ってきました。間違いなくその背中から多くを学んできたので、絶対に頭の上がらない存在ですが、今はその開放感を楽しんで仕事をしています。」